石は既に脇へ転がされ

 イエスさまは金曜日に十字架にかけられて殺されました。その遺体を安息日である土曜日にもかけたままにすることは禁忌であったので、急いで埋葬されたのです。そのため葬りの営みは未完成でした。安息日の間動けなかった婦人たちは、安息日が明けると動き出します。男性の弟子たちは動けませんでした。イエスさまに従う者であることがばれるのを恐れていたのでしょう。女性たちが動けたのは、勇気があったからでもありますが、男性優位の社会状況の中で、あまり目を向けられなかったという側面もあります。

 しかし婦人たちには懸念がありました。墓の前の岩をどうしようかという心配です。当時の墓は岩をくり貫いた洞窟のようなところに岩を転がして蓋をしていました。それは盗掘などを防ぐために大きな岩が転がされたのです。婦人たち数人だけでどうにかできるものではありません。仮にそうであったらいくらでも盗掘し放題になってしまいます。その岩をどうやってどけてもらおうか。妙案が思いつかないまま、婦人たちは墓へ向かったのです。

 ところが墓についてみると、全く思いもよらなかった事態となっていました。墓の岩は脇へ転がされていたのです。中に入ると遺体はありません。墓の中に入ると白い衣を来た若者がいて言いました。「驚くことはない。十字架につけられたナザレのイエスを捜しているのだろうが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。」。驚くことはないって言われても、驚くしかない出来事です。遺体が無くなった時点で十分に驚くべきことなのに、それが死者の復活であったなどという話であれば驚くのはなおさらです。

 しかし若者は続けます。「さあ、言って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』。」。驚きの出来事に関する詳細な説明はありません。わたしたちの理解が及ぶ説明はそこになされていません。死者が復活するなんて前代未聞です。それを理解ができる範囲で説明されたとしても、嘘としか思えません。しかしそれが起きたというのです。とんでもないことなのです。聖書はその驚きを驚きのまま伝えているのです。

 この報せを最初に受けた婦人たちはどうしたのかと言うと、恐ろしくなって逃げだしてしまいました。そして誰にも何も言わなかったという記述でマルコによる福音書は終わります。しかし本当に何も言わなかったのでしょうか。もしも本当に何も言わなかったのであるならば、この話がこうして残るはずがありません。大いなる恐れが婦人たちを襲ったのでしょう。しかしその恐れを上回る大きな喜びがあればこそ、イエスさまの復活は伝えられたのではないでしょうか。復活の喜びが真実であればこそ、動けないでいた弟子たちが再び動き始め、教会が立ち、福音が世界に広がっていったのです。

 繰り返しますが、これは人間の力で理解できることではありません。人間の力で実現できるものでもありません。しかしイエスさまの復活の出来事の背景には、わたしたちがどうしようもないと思うどんな現実も、神さまがお望みなればいくらでも変えられるという真実が示されているのです。「石は既に脇へ転がされていた」ように、わたしたちがどうしようもできないと思っている死の現実も、イエスさまが復活なさったことにより変えて頂くことができたのです。わたしたちはただそれを見上げて信じる他はありません。そして新しい永遠の命に生きられ始めたイエスさまに従う他は無いのです。

 しかしこのようにして私たちの手が及ばないところで、既に神さまが大きな業を成し遂げてくださっているということは、何という恵みでしょうか。ただ賛美をささげる他はありません。

中村恵太