「そうだ、マケドニア、行こう。」

 パウロは、「デルベ」や「リストラ」を再訪しました。それは14章の時とは反対の順序です。今回の旅は東の方から行ったためです。そしておそらくリストラにおいて「信者のユダヤ人女性の子で、ギリシア人を父親に持つテモテと言う弟子」に出会うことになります。パウロはコリントの信徒への手紙一4:17で、彼のことを愛する忠実な子と紹介しています。テモテはユダヤ人女性の子で、このテモテの母もキリスト者となったようです。しかし父親はギリシア人でした。わざわざこのように紹介するのは、父親はキリスト者にはならなかったのかもしれません。もしくは既に亡くなっていたのでしょうか。さらにテモテへの手紙二1:5からは、テモテの母はユニケ、祖母がロイスという名前であったことも分かっています。おそらく父親以外の家族はキリスト者となっていたのです。リストラから約30キロ離れたイコニオンなどでもテモテの評判は良かったようです。パウロもまたこの青年に注目しました。宣教の助け手として、一緒に来てもらいたいと願ったのです。そしてそのためにパウロは彼に割礼を施しました。このことは、かつてのパウロの主張と相いれない印象を私たちに与えます。なぜ割礼を要らないと言ったはずのパウロがここでわざわざ割礼を施したのでしょう。その詳細は分かりませんが、ユダヤ人コミュニティーで働くために、今回に限ってそのような措置をとることになったのかもしれません。強制としてではなく、テモテは割礼ができる状況と気持ちを持っていたので、自ら進んで行ったのかもしれません。このような個々の状況を鑑みた結果を、他の全ての状況に当てはめるような一般化はできません。

さてパウロたちは「方々の町を巡回して、エルサレムの使徒と長老たちが決めた規定を手渡し、それを守るように伝え」ました。こうした宣教師たちの訪問によって「教会は信仰を強められ、日ごとに数を増していった」のです。そこには順調な教会の成長を見ることができます。一方で「彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられた」のだともあります。これもまたなぜそうした状況があったのか、具体的な状況は分かりません。しかしどんな状況であってもその背後には必ず神さまの意図があるのです。そして全てを私たちは知りえない一方で、不思議な形で知らされる神さまの意図もあります。「フリギア・ガラテヤ地方を通って行」き「ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとした」時にも「イエスの霊がそれを許さなかった」のですが、「ミシア地方を通ってトロアスに下った」「その夜、パウロは幻を見た」のです。それは一人のマケドニア人が立って訴えるものでした。「マケドニア州に渡って来て、私たちを助けてください」とパウロに懇願する幻でした。「パウロがこの幻を見たとき、私たちはすぐにマケドニアに向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神が私たちを招いておられるのだと確信したからである」とあります。聖霊なる神さまの導きに対して動き出す人々の動きは速やかです。実際にはもう少しまとまった時間の経過があったのかもしれません。しかし神さまが私たちの背中を押して動き出す時とは、動き出してみるとそのタイミングでしかあり得なかったと思える程「すぐに」事柄が動き出すものでもあるのです。

本日の説教題は「そうだ マケドニア、行こう。」とさせて頂きました。マケドニアを京都に置き換えれば、もうそのままあの有名なキャッチコピーになります。私たちは実に便利な交通網の発達により、思い立ったらすぐに行けてしまう場所に住んでいます(ことに静岡にとっての京都はそうと言えます)。パウロにとってのマケドニアがそうであったとは思えません。しかしそんな場所にも「そうだ 行こう」と思える瞬間が神さまによって与えられます。そしてその志が与えられたとき、初めて行く場所であるゆえの不安があったとしても、前に進む勇気もまた、神さまから与えられるのです。

こうして「トロアスから船出してサモトラケ島に直航し、翌日ネアポリスに着き、そこから、マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民市であるフィリピに」パウロ一行は到着することになりました。ここでもパウロは「安息日に」、「町の門を出て、祈りの場があると思われる川岸に行」くことで宣教を始めます。そこに座って、集まっていた女性たちに話をしていたのですが、ここに「ティアティラ市出身の紫布を扱う商人で、神を崇めるリディアと言う女」が居て、信仰に導かれたのでした。「彼女はパウロの話を注意深く聞いた」のですが、すぐにそれは行動に現れました。「彼女も家族の者も洗礼(バプテスマ)を受け」て、さらに「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」と言って、パウロたちを無理やり招き入れたのです。当初想定していなかった助け、出会いがあったのです。

ここでのリディアとの出会いをはじめから考えてパウロは行動したのでしょうか。もちろんそれは違います。そのずっと以前からパウロには「そうだ 行こう」という志が与えられていたのでした。私たちも全て神さまの意図を知った上で行動することはできません。しかし時に先が見えなくても、神さまは前に進むようにと私たちを促してくださいます。そのような時には、私たちに先立って歩まれるイエスさまに信頼し、強く雄々しく進んで行くことができますように。

中村恵太