旧約聖書は、偶像崇拝を厳しく禁じています。しかし同時に、イスラエルが偶像に惹かれ、神さまと偶像を取り替えるさまを繰り返し描いています。人間は偶像が大好きです。偶像は欲望を肯定し、かなえてくれる便利な道具です。人間は神さまに従わず、自分が神さまに取って代わろうとするのです。コリント教会の人たちはもとは異邦人でしたが、偶像を捨て、まことの神さまに仕えるようになり、神さまの民に加えられました。わたしたちも同じです。神さまの民は開かれていて、絶えず新しい人をそこに招いているのです。
コリント教会の人たちは、生きて働いておられる神さまのもとで、ほんとうに生きることを学びました。そして、「イエスは主である」と信じ、告白するに至りました。これは、単なる事実についての宣言ではありません。自分の人生の、生き方の根本を規定する告白です。わたしは、この御方によって生かされている、わたしの存在の中心にあるのはこの御方である。そして、わたしはその僕である。わたしの主人はわたしではない。信仰がなければ、信仰が与えられていなければ、こう言うことはできません。口先だけで言える言葉ではありません。自分自身を全部賭けなければ言えない。理屈に基づいて、証拠に基づいて自分で検討してたどりついた答ではありません。このように告白する人には、聖霊が働いています。わたしたちは皆、この告白をして、洗礼を受けたのです。聖霊によって語る人が「イエスは呪われよ」と言うことはありません。そのように言わせるものがあるとすれば悪霊でしょう。人間に働くのは善い霊ばかりではない。偶像を拝んで踊らされている人たちは、悪い霊に動かされている。それは、きちんと見分けなければなりません。
そして、聖霊の働きかけがあるのに、人間はそれを拒んでしまうことがある。聖霊は、信仰をもっている人にだけ働くわけではありません。そもそも、わたしたちが教会というところに行ってみようと思ったことや、神さまを信じるということ自体、聖霊の働きによらなければ起こらなかったのです。そして、そのような不思議なことがわたしたちに確かに起こりました。自分が一番大事、とにかく自分が、自分で、ということに固執しなさい、頼ることはダメだ、と刷り込まれるのが現代社会です。しかし、天地の創り主、全能の神さまに頼ることを拒み、不確かな、間違いだらけの自分に頼るのは、滑稽でしかありません。「イエスは主である」と告白することで、自分が誰であるかが正しくわかるのです。この告白は一度口に出したらそれで十分、もう安心、あとは忘れてよい、というものではありません。道を逸れたり、迷い出たりしかねないからです。そうならないように、耳を澄まし、静かにささやく聖霊の導きをいつも祈り求めたいと思います。
髙根祐子