恵みの言葉に委ねられ

  パウロたちの旅は続きます。伝道旅行が一区切りした後の目的地としてエルサレムを目指します。いよいよという時、パウロはエフェソの教会の指導者たちと最後に話す機会を持ちました。エルサレムでパウロを待ち受ける厳しい出来事が念頭にあったことは想像に難くありません。ミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼びよせたパウロの話が始まりました。

 パウロはまず過去を概観します。「アジア州に足を踏み入れた最初の日以来」パウロは自分が「主にお仕えして」きたのだと語ります。教会のためになされた奉仕の特徴は「謙遜」です。もう一つは「涙」であり、それは回心に導かれた人々への思いやりでした。そして「試練」。ユダヤ人の迫害によって諦めてしまう誘惑に抗してパウロは働き続けたのです。そんなパウロの牧会の働きには、「公衆の面前」でも「方々の家」でもなされます。聞き手に益となることはどんな教えも惜しみなく伝えたのでした。「神に対する悔い改め」と「主イエスに対する信仰」を「ユダヤ人にもギリシア人にも」力強く証したのです。パウロが伝えようとした福音はいつでもどこでも誰に対しても向けられていたのです。

 そして「今」からこれからについてパウロは「霊に促されてエルサレムに行」くと語ります。しかし「そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分か」らないのです。どんなことになってもパウロは「自分の決められた道を走り抜き、また、神の恵みの福音を力強く証しするという主イエスからいただいた任務を果たすために」、「この命すら」惜しいとは考えていなかったのです。パウロはこの時に集まった者とはもう会えないと考えていました。彼等に対して神の国を伝える使命は完了していたのです。

 それではパウロが居なくなったら、エフェソの人々はどう行動すべきなのでしょう。彼らは「自身と羊の群れ全体とに気を配って」いくことが求められました。指導者たち自身が神に忠実である限り、それを教会全体にも期待できるのです。こうして「群れの監督者」としての責任を果たすことが求められました。パウロが「去った後、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすこと」が予想されています。さらに教会外部のみならず内部の者からも会衆を唆す者が予告されます。この異端とは具体的にはどんな者たちを指すのかは不明です。しかしいつでもそのような者たちが居たは確かですから、この警告はいつでも時宜にかなっているのです。そしてそんな中にあっても、パウロは教会の兄弟姉妹を「神とその恵みの言葉とに委ね」ると言いました。「この言葉」が人々を「造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に相続にあずからせることができる」のです。教会は人が代われば内容が変質するのではありません。そこで語られる聖書の言葉が教会を建て上げます。人がみ言葉を利用するのではなく、み言葉が人の上に立つ。礼拝を守る人々は礼拝に守られるのです。

 こうして礼拝に生きる信仰者はイエスさまに似た者へと変えられていきます。パウロ自身も高価な金銀を求めなかったこと、自身の生活のために自立していたことを伝え、イエスさまを証しようとした歩みを語りました。教会の贈り物には感謝してもそれを当然のもののようには考えず、欠乏してる人々を助け、自分のために多くの富を蓄えるより、誰かに与えることができる幸いを説いたのです。これこそがイエスさまの姿勢そのものであることは言うまでもありません。

 こうしていよいよ別れの時を迎えると、パウロのためにひざまづいての祈りがささげられました。しかしこの別れが全ての終わりではないのです。この別れの次に新しい出会いがあり、教会はさらなる広がりを続けていくのです。

中村恵太