最後の勝利

   使徒信条でわたしたちは、「身体のよみがえり」と唱えます。わたしたちが復活させられるときには、現在もそうであるように、身体をもった存在なのだ、ということです。身体と魂を分けて、身体は朽ち果てるが、魂は永遠である、とするのはギリシャ思想であって、キリスト教ではありません。神さまは、身体を備えたものとして人間をお創りになりました。だから、身体をよくないものとは考えていません。イエスさまも、身体を持った人間として、この世界に生きられました。復活は、魂だけでなく、身体を伴います。キリストは、身体をもって復活されたのです。

  キリストが復活させられれたのは、人であり神でもあるこの特別の御方だけに起こった、特殊な出来事ではありません。もしそうであったとすれば、わたしたちにとって完全に他人事で、何の関係もないことになります。この御方のゆえに、わたしたち人間もまた、復活することになるのです。キリストの復活とわたしたちの復活は、切り離すことができないのです。

 では、蘇るのはいったいどのような身体なのか。キリストの復活は、いくらかの手がかりを与えてくれます。人間として生きておられたのとは異なる、何かの変化が確かに起こった。これを受けてパウロも、復活の身体は「朽ちないもの」「輝かしいもの」「力強いもの」「霊の身体」に変えられるのだ、と述べています。人は、自然的な身体のままでは神の国を受け継ぐことができない。それができる身体,聖霊によって生かされる新しい身体、復活のキリストと同じような身体に変えられる必要があるのです。

 身体が変えられる、というのは、パウロによれば「秘儀」です。人間の身体は変えられる。そのときわたしたちが生きているかどうかは、関係ないのです。それ以前に死んで、肉体を失っていた者は、復活の身体に蘇る。終末の時にこの世に生きている者は、死を経ることなく、復活の身体に変えられる。一瞬にしてすべてが変えられる。終末は、神の国の完成です。それまで人間を支配し続けてきた罪と死から、ついに解き放たれる、最終的な、輝かしい勝利の時です。だから、わたしたちは希望を持って待ち望むことができるです。最後の敵、誰もが恐れる脅威であった死の力は、圧倒的だった。キリストも死んで葬られました。しかし、それで終わりではなかった。死によって死を打ち破られたのです。キリストが復活させられたことによって、死は完全に無力化されました。いままで散々人間を脅かしてきた死の力は、取り除かれてしまった。人間を支配していた死と罪、律法は、すべてキリストによって征服されました。死は、わたしたちの存在の終わりではありません。もしわたしたちが蘇らないのだとすれば、死よりも強いものがなくなってしまう。神さまでさえ、死の前には手も足も出ないのだ、ということになってしまう。もちろん、そんなことはないのです。死は打ち破られる。やがて、キリストが再び来られ、神の国が実現する。その時には、神さまとの正しい関係がついに取り戻され、万物が新しくなり、わたしたちもまた神さまと顔と顔を合わせて、共に住むことができるのです。

  キリストの十字架と復活は、キリスト御本人だけでなく、わたしたちの上にまで、豊かな恩恵をあふれさせます。わたしたちはただ感謝するほかはありません。終末はまだ来てはいない。だからわたしたちの救いの完成は、まだ起こっていない。でも、あるかもしれないし、ないかもしれない、という話ではありません。神さまが約束してくださったのですから、かならず実現するのです。わたしたちの希望も、勝利も、既に起こったのと同じほどに確実なものです。わたしたちが信じることは、決して空しくなりません。「死者は朽ちないものに復活し、私たちは変えられます」という言葉は、わたしたちにとって、尽きない希望と慰めの源なのです。

 

中村恵太