この男をご覧なさい

  

使徒言行録25:13~27

 パウロは、人々の前に引き出されました。彼は同胞であるはずのユダヤ人たちから告発されています。しかしその罪状ははっきりせず、裁く側も、何が問題なのかわからないでいるのです。総督フェストゥスは正直にパウロについて伝えるべき罪状が分からないと言います。パウロについて何度も「この男」と語られるのですが、誰もその存在の本質を見抜けないでいるのです。その信仰も、その訴えも本当に理解されようとはしないのです。

 このパウロの人生は、他人の都合のただただ流されているようにしか見えません。本日の箇所でパウロは一言も話さない。しかしパウロは沈黙の中にあって雄弁に自分のことを、自分が信じる神さまの存在を証しています。パウロは、自分が立たされているその場で、自分の立ち姿でもってそれを示しています。ここで人々が問うているのではなく、むしろパウロの側から、パウロが示す神さまの側から、人々が、私たちが問われているのです。

 詩編43編での詩人の祈りも周りの理解を得られない中でささげられたものです。人に理解されず、不正の中に置かれている。しかし神さまは全てをご存知であられる。だから何と言われようと動じない。動じないでよい。詩人は地上の人前の法廷ではなくて、天の神の御前の法廷へと視線を上げるのです。パウロの立ち姿は、この詩人の姿勢を生きた形で表しています。

 「この男をご覧なさい」と総督は人々に言いました。その問いかけは非常に浅いものでした。しかし神さまの御前に立たされたパウロに対して、私たちはこの呼びかけを本当の意味で受け止めなおす必要があります。どんな時であっても天を見上げ、神さまに信頼し、その救いを待ち望む、この信仰者の姿を見よ。この信仰者を支え生かす神の恵みを見よ。そう呼びかけられているのです。

 そして最後に、私たちも同じ天を見上げるのです。私たちもまた、誤解され、説明を許されないような状況に置かれることがある。人の法廷で理解されない苦しみに囚われる時がある。この地上の世界に希望を見出せない時がある。しかし、神さまは知っていてくださる。その神さまの御前に立つことに最後まで希望を持つことができるのです。

 だからこそ、今日のこの言葉が響きます。「この男をご覧なさい」。神さまの御前に立ち、神さまの救いを待ち望む人を。その姿に倣うことで、私たちも大きな力を得、同時にその姿に倣う私たちの背中を通して、周りの人々に大きな力を与える可能性が生まれるのです。神さまの御前に立ち続けられる生き方を、生涯貫くことができますように。

中村恵太