ローマ到着

 使徒言行録 28:11~16

 「到着」。この言葉を聞くと、自然に考えることは、やっと着いた。これで終わりだ。ここがゴールだ。ということです。しかしパウロにとってのローマ到着は、終わりではなく、新しい始まりです。パウロは長い旅の末にローマへ近づきました。それは順調な旅ではありませんでした。拘留の末に移送され、嵐に遭って船は難破する命の危険にさらされた上で、ようやくマルタ島にたどり着きました。さらにそこで毒蛇に噛まれもしたのです。普通に考えれば、「ここまでで十分だ」「もうこれ以上は無理だ」と思っても不思議ではありません。しかし神さまは、パウロに語っておられました。「あなたはローマでも証しをする。」。この言葉は、嵐によっても、難破によっても、毒蛇によっても、取り消されることはありませんでした。そしてついに、パウロはマルタ島から再び船に乗ります。その船には、ディオスクロイ ー異教の守護神の像― が掲げられていました。異教の神々の偶像を掲げた船が、真の神の使徒を運んでいる。実に滑稽で皮肉な状況に見えますが、ここに一つの真理があります。福音は、完全な世界の中を進むのではなく、むしろ、不完全で、偶像に満ちた世界の中を進んでいくのです。私たちの世界も同じです。完全ではありません。偶像と矛盾に満ちています。時に信仰に逆らうとしか思えない状況もあります。しかしその中であっても、神さまの働きは止まりません。

 パウロはプテオリに着き、そこに七日間滞在しました。その間に、ローマの兄弟たちに知らせが届きます。するとローマの兄弟たちは、パウロを迎えるために出てきました。アピイ・フォルム、トレ・タベルネ。約60キロもの距離を歩いて。囚人を迎えるためにです。パウロはその人々を見て神に感謝し、勇み立ったのでした。目に分かるような奇跡ではありません。嵐が止んだわけでもありません。不自由な状況が一変したわけでもありません。ただ、人に会った。しかしそれが、彼を立ち上がらせたのです。神さまは時に、人を通して私たちを支えられます。誰かの言葉や誰かの存在、誰かがどこかから来てくれること。それが誰かを立ち上がらせる。その人から伝わる神さまの愛が、他の誰かを支えているのです。教会とは、そのような場所です。ローマの兄弟たちは、パウロの働きを直接助けたわけではありません。ただ迎えに来ただけです。しかしその「迎え」が、パウロに新たな力を与えました。

 そしてついに、パウロはローマに到着します。そこでも、彼は自由ではありませんでした。常に監視されています。けれども彼には、自分で住むことが許され、人々と会い、語ることが許されていました。むしろパウロはこれまでも、どんな状況でも自由だったと言えます。いついかなる時も、彼は最善の形で神の愛を証してきたからです。神さまの働きは、外的状況によって制限されず、むしろその制限さえも、神さまは用いられます。

 ここで、ヨシュアへの神さまの言葉を思い起こします。モーセが死に、新しい時代が始まろうとしていました。ヨシュアは不安の中にいます。その時、神は言われます。「強く、雄々しくあれ。」「あなたの行くところどこでも、主は共にいる。」約束の地に入る。それはゴールではありません。そこからが始まりです。パウロも同じです。ローマに到着した。しかしそこで終わるのではなく、そこから福音が語られ、新しい働きが始められたのです。私たちの人生も同じです。「ここまで来た」「これで終わりだ」そう思う時があります。しかし神は言われます。「ここからだ。」。私たちはこうして到達したと思う場所から、神さまの働きに新しく参与するのです。

 パウロは様々な困難を経験しました。それらすべてがローマへと至る道でした。一見、不利に見える出来事が、すべて神の導きの中にあったのです。神さまは最短距離で導かれるとは限らない。しかし必ず、目的地へ導かれる。そしてその道の中で、神は人を備え、出会いを備え、励ましを備えてくださいます。「全ての道はローマに通ず」ということわざがあります。信仰の視点から見た時に、それは単にローマという都市と帝国の繁栄を表すのではなくて、新しい意味を持つのではないでしょうか。あらゆる苦難も用いられると。私たちもまた、それぞれの「ローマ」に向かって歩んでいます。そこに至る道は、決して平坦ではないかもしれません。しかし神は共におられる。そのことを信じて、歩み続けて参りましょう。

 

中村恵太