全く自由に防げられず

  

 パウロは、ついにローマに到着しました。長い旅でした。嵐があり、難破があり、毒蛇に噛まれ、囚人として鎖につながれる。そんな苦労がありながら、ようやくここにたどり着いたのです。到着からわずか三日後、彼はローマのユダヤ人指導者たちを招きます。パウロはまず彼らに語りかけました。「兄弟たち」と。パウロは自分をユダヤ人の外に置いていません。むしろその中に立ち続けています。そしてユダヤ人のことを心にかけ続けています。そして言いました。「私は民族にも、先祖の慣習にも背いていない。」。パウロが命がけで携えてきた福音は、イスラエルの信仰とかけ離れた別物だったのではありません。その延長線上にあるのです。

そしてさらにパウロは言います。「イスラエルが希望していることのために、私はこのように鎖でつながれているのです。」と。彼は、自分の不幸を語らず、神の約束のために鎖に繋がれていると言ったのです。パウロの歩みには繋がれた鎖のように困難が付きまといました。しかしそれはパウロにとって、イスラエルが待ち望んでいたことのためだったのです。ただの苦しみでは終わらないもののためにパウロは生きて立っていたのです。

その後、日を改めて、多くの人を前にしたパウロは、朝から晩まで語ります。そのテーマは二つ「神の国」と「イエス」についてでした。このことを解き明かす際、パウロはモーセと預言者、つまり旧約聖書すべてを用いて語りました。福音とは思いつきではなく、神の歴史の成就なのです。それを示すために、パウロはこれまでのイスラエルの歩みを、それも彼が生涯をかけて学んできたもの、すなわち彼の賜物を存分に用いて全力で語ったのでした。

その結果、ある者は信じ、ある者は信じませんでした。意見は分かれました。ここに福音の現実があります。福音は、すべての人に同じ反応を生むわけではありません。むしろ、福音は人を分けるのです。その時、パウロはイザヤの言葉を語ります。「あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らず 見るには見るが、決して認めない。」これは厳しい言葉です。神の言葉が語られているのに、拒まれる現実が付きつけられます。しかしこれは神の福音宣教の失敗なのでしょうか。そうではありません。言われたらただ唯々諾々と従う、ロボットのような存在として人間が創られたのではないのです。拒否をする自由を認めているところに、一人一人の存在を認め、尊重する姿勢があります。そのようにして神は、主イエスは、人に向き合ってきたのです。そして歴代の預言者たちも、その姿勢に倣って神の言葉を取り次ぎ続けてきました。パウロもまたその姿勢に倣っているのです。

そして拒絶にあったからといって終わりではありません。パウロはこう言います。「神のこの救いは異邦人に送られた。」ここに大きな転換があります。ユダヤ人の拒絶は、神の計画の失敗ではありません。むしろ、福音が全世界へ広がる道となったのです。ここで、今朝、合わせて読まれたもう一つのイザヤの言葉を思い出します。イザヤ書 55章です。雨や雪が天から降って、地を潤し、実を結ばせるように、神の言葉も、むなしくは天に帰らないのです。神の言葉は、必ず実を結ぶのです。たとえ人が拒んでも、時がかかっても、見えなくても、神の言葉は前進していくし、してきたのです。そして最後に、使徒言行録はこう締めくくられます。「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者は誰彼となく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」。「何の妨げもなく」パウロは教え続けました。彼は囚人で鎖につながれたりもしたのです。行動は制限されていた。しかし福音は妨げられていなかったのです。人は止められた、しかし福音は止まらないのです。むしろ、どんな状況の中でも、限界のあるところから広がっていきます。こうして使徒言行録の記述は終わります。パウロの死は書かれていません。ローマで殉教したと言われるパウロですが、最後に使徒言行録が伝えたかったのは、神の言葉が今も前進しているということなのです。そしてこの続きは、私たちの歩みの中で書かれていきます。使徒言行録29章の現実を、わたしたちの歩みが記すのです。主イエスを示すこの福音。パウロが伝えたこの福音。代々の聖徒たちも伝え聞いたこの福音。私たちもまた同じこの福音に生き、この福音を語り、この福音を携えて、前に進んでいくのです。たとえどんな困難があろうとも、どんな制約の下に置かれていようとも。主なる神がわたしたちにこの福音を携え、その福音の響くひとときにあって生きるとき、わたしたちは全く自由で、妨げられることはないのです。

中村恵太