安息日が終わった週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓に向かいました。静かな朝でした。しかしその静けさの中でこの世界の歴史を決定的に変える出来事が起こります。単なる一日の始まりではなく、新しい創造の朝、死の闇が消え、命の光が差し込む朝だったのです。
婦人たちは、墓を見に来ました。愛する主が死なれた現実を見届けようとして来たのです。彼女たちにとってこの朝は、まだ悲しみの朝でした。しかしその朝に、神が介入されます。大きな地震が起こり、主の使いが天から降りて来て、石を脇へ転がし、その上に座りました。石が転がされたのは、主イエスが墓から出るためではありません。復活の主は、もはや石にも妨げられません。石が転がされたのは、婦人たちが中を見て、空の墓を確かめるためでした。神は復活をただ心の中の慰めとしてではなく、現実の出来事として示されたのです。その墓は空でした。死は主を閉じ込めておけなかったのです。
ここで二つの恐れが描かれています。一つは、番兵たちの恐れです。彼らは御使いの姿を見て震え上がり、死人のようになりました。死によって主イエスを閉じ込めようとしていた者たちが、命の主の前で、かえって死んだ者のようになったのです。何という皮肉。神を拒む恐れは、人を硬直させ、動けなくします。もう一つは、婦人たちの恐れです。しかし御使いは彼女たちに言います。「恐れることはない」と。恐れがなかったのではありません。しかしその恐れは、喜びに包まれた恐れへと変えられるのです。そして彼女たちは立ちすくむのではなく、走り出したのです。復活は、恐れを一瞬で消し去るのではありません。しかし、喜びを伴う歩みへと変えていきます。
御使いは言いました。「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」。これがキリスト教信仰の中心です。「十字架につけられたイエス」――あの辱めの中で死なれた主が、父なる神によって死から起こされた。これは単に「生き返った」ということではありません。それは、十字架の死が無駄ではなかったという父なる神の公の宣言です。主の苦しみは敗北ではなく、終わりでもなかった。空の墓は、その勝利のしるしです。
そして婦人たちが走って行く途中で、復活された主ご自身が彼女たちに会われます。主の第一声は、「おはよう」でした。いつも交わされていた日常の言葉。それと同時にこの言葉は「喜べ」 という意味を持っています。復活の朝において、何気ない挨拶さえ、喜びの宣言に変えられるのです。
そして主イエスは言われます。「行って、わたしの兄弟たちに伝えなさい。」。この言葉は本当に深い恵みです。弟子たちは皆、逃げました。主を見捨てて。それでも主は彼らを「わたしの兄弟たち」と呼ばれるのです。裏切りがあったのに、逃亡があったのに、それでもなお、主は家族としての関係を回復されるのです。
復活の恵みとは、死に打ち勝つ力だけではありません。それは、罪によって壊れた関係を回復する恵みです。だから復活の朝とは、主が再び私たちを「兄弟」「姉妹」と呼んでくださる朝でもあります。そして主は今も言われます。「行って伝えなさい。」「ガリラヤへ行きなさい。」ガリラヤとは、弟子たちが最初に召された場所。日常の場所。宣教の最前線です。復活の主は、私たちを特別な場所に閉じ込めません。私たちの生活の現場へ、この世界のただ中へと送り出されます。復活信仰とは、過去の出来事を思い出して終わることではありません。復活の主に押し出されて、もう一度歩き始めることなのです。恐れの中にとどまるのではなく、喜びをもって歩み出しましょう。この新しい命の朝を、共に生きていきましょう。
中村恵太