初代教会は、外からの迫害と内からの異端という二重の困難の中で、三位一体の信仰と教会の骨格を形づくっていきました。イエス様が約束された「助け主なる聖霊」は、歴史を通して教会を導き続けておられます。ヘブライ人への手紙が書かれた紀元90年頃、教会は迫害と疲労の中で礼拝出席も減り、信仰の勢いを失っていました。この姿は、現代日本の教会の高齢化や会員減少とも重なって見えます。
ヘブライ人の説教者は、信仰が成長せず「乳しか飲めない」状態にとどまることを厳しく戒め、「キリストの教えの初歩を離れ、成熟を目指して進もう」と勧めます。洗礼は罪の赦しと教会への加入を示しますが、洗礼時の初心に留まるのではなく、キリストの福音の深みへと進むことが求められます。
12章では、苦難を「主の鍛錬」として受け止めるよう語られます。神は愛する者を子として扱われ、鍛えられた者には「義という平和に満ちた実」が結ばれると教えます。私は東日本大震災の2週間後に被災地でのボランティア活動を経験し、理不尽な苦しみの前で「主の福音をどう語るか」という重い問いに直面しました。子どもからの「なぜ神様は助けてくださらなかったのですか」という問いにも容易に答えは出ません。
しかし、聖書は最も理不尽な出来事――十字架の死――を通して、神の愛を示しています。ヨハネ福音書3:16が語るように、神は独り子を与えるほどに世を愛されました。被災地の教会が今日も礼拝を守り続けている事実は、主の支えと聖霊の働きの証しです。
聖書が告げる私たちの課題は明確です。
①キリストを知らない人に主の福音を伝えること。
②子どもたちの信仰の成長を祈り促すこと。
③自らも乳飲み子の信仰にとどまらず、成熟を求めること。
④自分の思いではなく聖霊に心を明け渡すこと。
これらはすべて主の日の礼拝から始まります。
ヘブライ人の説教者は「主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、
鞭打たれるからである」と語ります。たとえそれが私たちの理解を超える苦しみであっても、その苦しみには意味があるのだと語ります。
聖書は疲れを覚える人々に主を信頼することを求めます。信仰の成長を私たちに強く求めます。そして語ります。
【疲れた者に力を与え 勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが 主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。】 イザヤ書40章29節から31節を三度お読みいたしました。これが主の福音を知る私たちに与えられる恵みです。
主を礼拝することで始まる一週の歩み、主の愛の中にある一週の歩みを始めましょう。 祈ります。
教師 波多野保夫