静岡市プロテスタント伝道事始め

 さて、駿府教会独立100年の歴史を振り返る前に、そもそも静岡市の伝道の始まりとはどのようなものだったのかを振り返っていきます。そもそもは戦国時代のキリシタン伝来に遡らなければならないのですが、本コラムでは明治期以降のプロテスタント伝道の始まりを扱います。

 明治維新後、静岡は全国的に見ても特別に大変な状況に置かれました。徳川慶喜をはじめ旧幕臣たちが江戸から大量にやってきたからです。彼らはかつての身分や待遇を失い、いわゆる「無禄移住」という状態で静岡にやってきます。それを迎え入れる静岡の人々も準備に追われました。

そんな中にあって明治初年、静岡学問所が創立されます。これは江戸とその周辺の教育機関で活躍していた人材を結集した学校で、当時最先端の教育を行っていました。さらにそこに優れた外国人教師を招聘しようという動きが生まれます。ここで勝海舟が、優秀な教師の斡旋をある人に依頼しました。それが福井藩に居たお雇い外国人ウィリアム・エリオット・グリフィスです。彼は勝海舟の息子である勝小鹿が留学していたラトガース大学にいたことのある人物でした。この依頼を受けたグリフィスはやはりラトガース大学で一緒だった彼の親友、エドワード・ウォーレン・クラークを推薦することになったのです。

 こうして1871年10月25日、クラークは来日します。同年12月6日に静岡へ入り、12月17日には滞在していた蓮永寺の居室でバイブルクラスを行いました。これが静岡プロテスタント伝道の始まりです。未だ禁令の高札が取り下げられていない時でした。当時まだ牧師でもない22歳のクラークでしたが、その後約2年間、静岡で精力的に働きます。クラーク自身はまだ牧師ではなかったので、その時すぐに受洗者を生み出すには至りませんでした。しかし彼が蒔いた種は後になって芽吹くことになりました。